* * *
十年前―――――
土曜日の夜になると、私はそわそわしていた。
彼は土曜日の夜にふらっと来ることが多かったのだ。
そういえば、真里奈と大学の食堂でランチしていた時、こんなことを言われた。
『はぁ? お兄ちゃん的な存在? ないない。それって、美羽の初恋なんじゃないの?』
真里奈とは入学してから意気投合して、仲良くなった。ぼうっとしているタイプの私とは逆のタイプだけど、一緒にいて心地がいい。
『どうして男性だからって恋愛に結びつけちゃうの? 真里奈を好きなように、紫藤さんのことも好きなの。お弁当作ってくれたり、一緒にDVD観たり』
『……それ、おうちデートじゃん。で、手を出してこないの?』
『まったく。だって、妹だと思っていると思うけど』
『妹だなんてありえないよ』
そんな会話を思い出しながら、テレビを見ているとチャイムが鳴った。心臓が大きく跳ねて待ち構えていたかのように急いで玄関まで行くと、紫藤さんが立っていた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
一緒に住んでいるわけでもないのに、紫藤さんはうちに来ると「ただいま」って言うのだ。ニッコリ笑って中へ入ってくると、鼻をくんくんさせる。
「あの、ね。ホットケーキ作ったの。紫藤さんが来るかなって思って」
料理ができない私のチャレンジだった。彼の喜ぶ顔が見たかったのだ。でもやっぱり少し焦げてしまったし私は料理が不得意だと実感していた。
紫藤さんは私の目の前に立って優しい視線を向けてくる。手がゆっくりと伸びてきた。
キス? ど、どうしよう……。心の準備ができてないと思って瞳を思いっきり瞑る。
すると紫藤さんの手が頬にそっと触れた。
「粉、ついてんぞ」
「えっ?」
一瞬でもキスをされてしまうかもしれないと思った私は恥ずかしくてたまらない。
「随分急いで玄関に出てきてくれたみたいだけど、そんなにお兄ちゃんが来るのが楽しみだったか?」
顔がくしゃりとするほど笑顔になって、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくる。
「楽しみだったよ。だって、一緒にいると楽しいから……」
「そっか。じゃあ、なるべく会いに来てやんないとな」
「でも、仕事忙しいんでしょ?」
「イベントとか、レコーディングとかね。でも、可愛い妹に会えないと元気でないし」
ほら、やっぱり。紫藤さんは私を妹としか思ってない。
男女の友情って成立するもんよ。
「どれ、うわ、焦げてんじゃん」
「だって茶色くなるまで焼かなきゃ。生だとお腹壊しちゃうでしょ?」
「さすがに焼きすぎだろ……」
ショボンとしてしまった私の頭に手をポンと置いた。その重みがなんだか温かい。
「一生懸命作ってくれたんだよな。ありがとう。食べようか」
ちゃぶ台に皿を置いて向かい合って座った。
二人で焦げたホットケーキを食べる。
「美味しい?」
「あぁ、うまい。美羽が一生懸命作ってくれたんだからうまいに決まってるよ」
キラキラと輝く笑顔を向けられると私の胃のあたりが熱くなった。この感情が何なのかわからない。一週間お互いに何をしていたか会話を重ねていた。あっという間にホットケーキは食べ終わった。
「美味しい?」「あぁ、うまい。美羽が一生懸命作ってくれたんだからうまいに決まってるよ」キラキラと輝く笑顔を向けられると私の胃のあたりが熱くなった。この感情が何なのかわからない。一週間お互いに何をしていたか会話を重ねていた。あっという間にホットケーキは食べ終わった。「大学の友達に彼氏ができたんだって。今度紹介してくれるみたい。私にも男の子を紹介するって言われたんだけど、恋愛とかよくわからないんだ」紫藤さんは、あぐらをかいてつまらなさそうに話を聞いている。「あ、ごめんなさい。つまらない?」「んー。恋愛する気ないなら、男を紹介してもらうことないだろう。いいんじゃないの。好きだって思える人ができるまで恋だの、愛だの」「だよね……」「焦ることはないさ」大くんの言葉に妙に納得した。いつか私が本当に好きだと思える人ができたらその人と恋をすればいいのだ。「紫藤さんは、今日はどんな一日だった?」「結構忙しく過ごさせてもらっていたよ。新曲の準備やダンスレッスンを受けてたよ」「へぇー。新曲かぁ。芸能人みたいだね」「一応売れない芸能人。だけど、三人組で仲間がいるから頑張らないといけないんだ。俺らが、歌ったり踊ったりして、それを見た人が元気になってくれたら……最高に幸せじゃん」夢を語る人のキラキラした笑顔は大好き。夢を叶えてほしい。「きっと、紫藤さんなら夢、叶うよ。私、信じているから」「美羽が信じてくれるなら頑張れそうだわ、俺」ニッコリ笑ってうなずいた。私は紫藤さんの夢を応援しようと思う。今までにシングルCDが二枚出ていたけど購入した。残念ながらあまり売れてないみたい。申し訳ないけれどCOLORというグループの存在は知らなかった。「もし俺が売れたら、美羽の欲しい物をなんでも買ってやるよ。何がいい?」「んー。特に欲しい物はないかな」「欲がないのね、お前」気だるそうに笑った。テレビを見て同じツボで笑って、すごく楽しい。この時間が永遠に続けばいいと思ってしまう。「今日は泊まるわ」「うん!」紫藤さんは特別な存在だから泊まることが当たり前になってもまったく抵抗がない。女友達と同じような感覚なのだ。「あ、DVD借りてきたから一緒に見て?」今はレンタル屋さんに行かなくてもすぐにスマホで見られる時代だが、当時は借りてくることが当たり前だった。紫藤
*真里奈が彼氏を紹介してくれるとのことで大学が終わってから一緒にカフェに行くことになった。真里奈の恋人に会えるのが楽しみだったのもあるけど、ティラミスが美味しいと噂の店だったのでそれも楽しみだった。カフェに到着して注文して待っていると彼氏が到着する。「彼氏のコーくん。三歳年上なの。コーくん、友達の美羽」「はじめまして。真里奈の彼氏です」「はじめまして。美羽と申します」勝手にもっとチャラチャラした人とお付き合いしているのかと思ったけど、好青年でびっくり。爽やかなスマイルが眩しい。オレンジジュースをくるくるストローで回しながら、真里奈の話を聞いている。「出会いはどこだったの?」私が質問すると真里奈は笑顔で答えてくれる。「バイト先の先輩なんだけど、偶然高校が一緒だったの」「そうなんですね」二人の親密さが伝わってくる。いいな、恋とか愛とかって素敵に見える。憧れはあるけど私にはものすごく遠くにあるように感じていた「デートとかって、どんなことするの?」「えーっと。カラオケとか映画とか行くこともあるし、二人で家でゴロゴロしている時もあるしね」「うん」視線が絡み合う二人を見ると、胸がトクトクと音を立てた。甘い恋とかよく小説で見たりするけど、まさにこんな感じだろう。お互いを大事にして、痛みも喜びも共有して、愛を深めていく。二人で愛というものを育てていくものなのかもしれない「ね、コーくん。美羽の家に謎の男子が週一くらいで遊びに来るらしいんだけど、男としてどう思う?」「謎の男子? 美羽ちゃん、気をつけるんだぞ。いきなり襲われるってこともあるんだからな?」「男性ってそんなものなのでしょうか?」「もしかしたら美羽ちゃんのことが好きなのかもしれないけど……。告白とかされた?」「いえ、友達のようなお兄ちゃんのようなそんな感じです」コーくんは腕を組んで頭を捻っている。なかなか人には理解ができない関係なのかもしれない。「美羽は、初心過ぎんの。もう大学生なんだし、いろいろ経験しとかなきゃ。あ、コーくん。男の子紹介してあげて」「い、いいっ……。大丈夫だから」「知り合いで真面目でいいやつもいるし本当に誰かと付き合ってみたいなとか、まずは男お友達を作ってみたいっていうのがあったら気軽に言ってね」「ありがとうございます」その後、恋愛のことや
ファミレスでバイトを終えた夜、バイト仲間の小桃〈こもも〉さんに誘われて、カラオケに行くことになった。小桃さんはお金持ちらしくて、バイトなんかしなくてもいいのに、社会勉強をしたいから働いているらしい。いつもカラフルな服を着ていて独特なファッションセンスを持っている。「会員専用のカラオケなのよ」「ほう……すごい所に連れてきてくれてありがとうございます」連れてきてくれたのは見るからに高級そうなお店なので中に入るのを躊躇した。「いいえ。パパが接待とかで使うところなの。カラオケはここ以外知らないんだけど……いい?」「あ、でも……」「お金は気にしないで。おごるから、歌聞くの付き合って」「……はい。ではお言葉に甘えて」押しに弱い私。ちょっと遅い時間だったけど、付き合うことにした。可愛いけれどこの性格でちょっと金銭感覚がずれているから友達が少ないみたいだ。受付をしている時、ふっと横を見ると紫藤さんが綺麗な女性とCOLORのメンバーと一緒にいた。うちに来ている時よりもキリッとしたような印象だった。私の存在には気がついていないようだ。声をかけたいけれど、周りの人に変な目で見られたら嫌だし迷惑をかけるわけにもいかない。彼は芸能人なのだ。だから気づかないふりをしようと心に決めた。すると、紫藤さんは綺麗な女性の肩に手を回した。慌てて目をそらした。今のこのシーンを見ただけで心臓が切り裂かれたような痛みが胸を走る。紫藤さんにも恋人がいたんだ。いつからいたのだろう。あんな姿見たくない。今まで体験したことがない気持ちが沸き上がってきて気分が悪くなる。紺色の液体が血液を流れて、冷やっとして、体温が奪われていくような感覚だった。「どうしたの? 美羽ちゃーん?」「は、え、いえ……」小桃さんの声で紫藤さんがこちらを見た。遠くからだったけど、目が合った気がする。紫藤さんは、私の存在に気がついても美人な女性から手を離さない。私の目線を追った小桃さんが「あれ、どっかで見たことある……誰だっけ?」と抜けた声で聞いてくる。「ここ、芸能人とかもお忍びで来るんだよー。プライベートで来ているわけだし、恥ずかしいからサインくださいとか言っちゃ駄目よ。これが、セレブの世界なのよ。さ、歌おう」背中を押されて歩き出す。どんどんと紫藤さんの近くに向かっている。嫌だ、近く
部屋に入るとふたりではあまりにも広すぎる空間だった。パーティーでもできるのではないか。「じゃあ歌うから聞いててね」楽しそうに歌っている小桃さんを、ぼんやりと眺める。歌なんて耳に入ってこない。頭の中には紫藤さんの姿ばかり浮かんでいた。どうして、こんなに悲しい気持ちなのだろう。あんな綺麗な女性に勝てるわけはないし、落ち込んだって仕方がないのだ。そもそも私は紫藤さんのことを恋愛感情として見ていないはず。それなのになんでこんなに重たい気持ちになるのだろう。「ねぇ! ねぇってば! 美羽ちゃん、どうしちゃったのよ」「あ、ごめんなさい」小桃さんはつまらなさそうにソファーに深く座った。そして最新式の携帯電話で何か検索しているようだ。「思い出した! さっきのCOLORじゃない? 紫藤大樹、赤坂成人<あかさかなるひと>、黒柳<くろやなぎ>リュウジ。三人とも苗字に色が入ってるからってグループ名がCOLORなんだって。夜中の番組でやってた!」「はい、知ってます」「あら、もしかしてファンなの? そっかーじゃあサイン欲しいよねー。ごめん、ごめんっ。声をかけさせてあげればよかったね。でも暗黙の了解でここでそういうことをしちゃいけないってことになってるのよ」少しずつ少しずつ、COLORは知名度を上げてきている。「きっと売れるだろうね。イケメンだしダンスは上手い。それだけじゃないわ。特に紫藤って人は売れる素質を生まれ持った感じがある。けっこう、当たるのよ、私の勘」小桃さんはふたたび機嫌をよくした。本当に彼女の予想は当たりそうだ。わからないけれどそんな気がする。「あとは、楽曲に恵まれたらグーンと売れそう。ファンクラブの会長にでもなっておけば?」「ハハ、面白いね……それ」なんとか話を合わせて、頑張って笑顔を作る。小桃さんは曲を入れて歌いはじめた。その歌声を聞きながら、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろうかと考えていた。風邪でもひいたのかな。体の調子がおかしい。さっきまで元気でファミレスでバイトをしていたのに、何かが引き金になってこんな状態になったのかもしれない。
「今日は楽しかったね。ありがと」カラオケを終えて外に出ると、蒸し暑い夜だ。汗がじんわりと滲んでくる。もう深夜に近い。こんなに夜中まで遊んでいることを母に知られたら大激怒されるだろう。「またねー」小桃さんは、タクシーで帰っていく。そんなにお金がない私は、家までここから二駅だから歩いて行くことにした。携帯が鳴りバッグから取り出すと『紫藤大樹』の文字が浮かび上がっている。外灯があって明るいとはいえ夜だから、携帯の明かりはすごく光って見えた。……いや、紫藤さんの名前だから特別に見えたのかもしれない。なんとなく通話ボタンを押すのに躊躇する。先ほどの綺麗な女の人と一緒に居る光景を思い出して呼吸が苦しくなったのだ。動揺しているのを隠して話せるだろうか……。だけど、電話に出ないのもおかしいので冷静を装って通話を開始する。「もしもし」『美羽。今どこ?』「あーえっと……○○駅の近くです」『一人?』「はい」『こんな時間に危ないだろう。さっきの友達は帰ったのか?』「……だ、大丈夫ですよ。大人だし」まるで子供扱いされているようですごく嫌な気持ちになった。『まだまだ子供だろうが。迎えに行く。待ってろ』カラオケで私の存在に気がついていてくれたことは嬉しかったけど、一人の女性として見てほしい。たしかに、さっき紫藤さんの隣にいた女性は美しくて大人なオーラ全開だったけど。私だって大人だ。どうして紫藤さんの発する一言一言に、心がこんなに揺れるのだろう。「一人で帰れます。……一人で、帰りたい……」蚊が鳴くようなか細い声で言った。けれど、夜中に一人で歩くのは心細いし誰かにそばに居てほしいって思っているのが本心。だけど、素直になれなかった。『は? 何言ってんだよ。すぐ行けるから、○○駅の北口で待ってろ』電話が切れてしまった。その場から立ち去ってしまおうかと思ったけど、そんな勇気はなくて駅の北口の外で佇んでいた。最終電車がなくなった駅の周りは閑散としている。怖そうなお兄さんが歩いていたり、酔っ払ったおじさんがフラフラしていたり。昼間と違って夜は治安が悪くなっている気がした。こんなところを小娘が一人で歩いていたら危ないに決まっている。「美羽」すぐに目の前に現れてくれた紫藤さんの姿を見ると泣きそうになる。でも弱みを見せたくないのでなるべく平常心のような表情
「カラオケ、誰と行ってたの? あそこ、VIPばっかり来るところじゃん」振り返らずに話しかけてくる。「バイト先の知り合いと」「……ふーん。男も……、居たのか?」「いいえ」「そう」ポツリポツリと会話をするだけ。気まずい空気を作ったのは私なのだけど、いたたまれない気持ちになってくる。しばらく無言で私たちは歩いていた。「美羽は俺に質問しないのか?」「……特に質問は無いですけど、芸能人なんだなって思いました」「あっそう」だって、自分でもまだ心の中で整理できていないんだもの。このモヤモヤはどこからやってきて、何が原因で、どうすれば解決するのかわからない。また私たちは会話をせずに歩いていた。家の近くの路地に入ったら、ポツポツと外灯があるが暗い。やはりこの暗い中を一人で歩いてくるのは怖かったので一緒に帰ってきてくれてとてもありがたかった。でも綺麗な彼女がいる人に対して依存してはいけないと自分の心に蓋をする。「早く大人になれ、美羽」「大人です」俯いて歩いていた私は紫藤さんの胸に頭をコツンとぶつけて顔を上げる。至近距離で笑っている顔が外灯に照らされて見えて、ドキッと胸が鳴った。「ドジ」「……っ」「俺は、美羽が大人になるところを見届けるよ。それまで一緒にいる」「大人って何が大人なんですか?」紫藤さんは大人の男の人のような色っぽい笑顔を浮かべた。今までに私には見せてくれなかった瞳の色だ。「恋愛したら……かな」「そ、そんなの安易な考えだと思いますけど!」「シー。夜中だから小声でね、美羽」頭をポンポン撫でて笑っている。「恋ってさ、たぶん、すっげぇいいんじゃないか?」「だって……好きな人、できたことないって言ってましたよ、紫藤さん」「うーん。それが最近、できたっぽい」ピンときた。さっきの女の人だ。紫藤さんは、あの美人女性に恋をしてしまったのだろうか。「美羽は? まだ恋愛とかできそうじゃないのか? お兄ちゃんに言ってみろ」「……わからない……です」私は、紫藤さんにとっては妹のような存在だ。そんなの最初からわかっているのに、なんだか嫌な気持ちになる。「大人になるところを見届けるって。それって、いつかお別れしちゃうってことですか?」「美羽に好きな人ができたとする。で、彼氏ができたとする。そうしたら、彼氏は俺の存在が邪魔になる
紫藤さんは素敵な人だ。紫藤さんが恋をした相手もきっと素敵な女性なのだろう。先ほどカラオケでしか見てないけどとてもお似合いだった。二人が恋人になるのにそんなに時間はかからないはず。そうなれば私とはもう会ってもらえなくなってしまうのだ。想像するとあまりにも悲しくて寂しくて。今日はもう帰らないでと思ってしまった。「泊まりますか?」「……うん。もう、疲れちゃったし。寝たい」会えなくなる人なのに、家に泊めちゃうのは私の意志が弱いからなのだろうか。部屋に一緒に入ると、紫藤さんは欠伸をしてソファーに横になってしまった。そんな姿を私はただ見つめる。目を閉じるとまつ毛の長さがハッキリわかって、鼻は高くて唇は形がいい。お化粧したら女の子よりも、可愛いかもしれない。「シャワー借りようかな。汗でベトベト」本当に疲れた様子だが紫藤さんは起き上がる。「美羽も一緒に入ろうか?」「はい?」「嫌なの? 俺のことお兄ちゃんだと思っていたら、意識しないで普通に入れるんじゃない?」茶色の瞳でちょっと見つめてきて私の心を覗かれているような気がした。からかっているのだろう。クククと喉を震わせて笑っている。紫藤さんは異性なのだと、はじめて意識した気がする。目の前にいる人は男。もしかしたら急変して襲われてしまうかもしれない。はじめては痛いらしい。何を考えているの、私ったら。話が飛躍しすぎた。「どうしたの、美羽。怯えている?」紫藤さんが目の前にしゃがんで視線を合わせてくる。私は少し後ずさった。「怯えてなんか、ないです」「それでいいんだよ。男を警戒することも大事。ちょっと大人になったんじゃない?」「……っ」「だから、俺以外の男をここに入れちゃ駄目だぞ。危ないから」シャワー借りるねと言って、バスルームに消えてしまった。しばらくして、シャワーの流れる音が聞こえてくる。はじめては痛い。だから嫌なんじゃなくて……。恋の延長線上にそれがあってほしい。私……恋人が欲しいんだ。だからと言って誰でもいいわけじゃない。ちゃんと好きになった人と結ばれたい。胸に手を当てて大きく息を吸う。うまく、呼吸ができない。心と体の細胞が噛み合っていないような。苦しい――。ガチャっと音がして振り返ると上半身裸の紫藤さんが頭を拭きながら出てきた。引き締まった見事なボディーだ。腹筋が割
「美羽」優しいトーンで呼ばれる。「は、はい……」「ただ、呼んだだけ。呼びたかったの」そう言うとTシャツを着てくれた。空気が動いて紫藤さんの香りがする。男の人の匂い……だ。こんなにも紫藤さんを男の人として意識するなんて、どうしちゃったんだろう。間違いなく胸は、トクトクトクと変な動きをしていた。このまま一緒に朝まで過ごすなんて、無理だ。ぷるぷると頭を横に振り出す私。「どうしたの?」「紫藤さん……。か、帰ってください」「なんで?」なんでって。帰ってほしいから――。心臓が苦しいから!「あなたがここにいると、苦しくてたまりません。胸が痛くて泣きそうになるんです」「胸が痛い? どんなふうに? いつから?」「お医者さんみたいに問診しないでくださいっ」私の顔は、すごく熱い。耳がヒリヒリする――。「へぇー」なんだか面白いものを見て、興味ありそうな態度だ。「治す方法、知ってるよ?」カーペットに座り込んでいる私の隣に、しゃがんで至近距離で見つめてくる。治す方法があるなら、早く教えてくれたらいいのに。紫藤さんは笑ってなかなか言わない。意地悪。ゆっくり顔を上げて紫藤さんを見る。そして、頭を左に傾けて問いかけた。「とにかく楽になりたいんです……。どんな、方法ですか?」「こんな方法」――チュ。リップ音がした。目をパチパチさせて状況を確認する。五秒。十秒。二十秒……。このまま唇がくっついていると、呼吸ができなくなってしまうと思って両手で紫藤さんを突き飛ばした。「ハァ……、ハァ……。な、に、するん、ですかっ!」「キス。まだ三十秒もしてないけど? 鼻で上手く呼吸しなきゃ。美羽。やっぱり、おこちゃまだな、お前」あの美人さんとは、大人なキスをしたのだろうか?こんな緊急事態発生中なのに、そんなことを思ってしまう。紫藤さんは何事もなかったかのように、ソファーに腰をかけてテーブルに置いてあった女の子向けのファッション誌をパラパラめくっている。キスをしてしまったのだ。こ、これは一大事!……ど、どうしよう。「いつまでフリーズしてんの? さ、寝るぞ」紫藤さんはソファーに横になった。私も布団を敷いてとりあえず横になると、目が合った。「どう? 治った?」「全然っ。むしろおかしくなりました!」「そりゃあ重症だね。もっと練習しばきゃね」
司会は事務所のアナウンス部所属の方のようだ。明るい声で話し方が柔らかいいい感じの司会だ。美羽さんと紫藤さんがゆっくりと入場してきた。真っ白なふわふわのレースのウエディングドレスを着た美羽さんはとても可愛らしい。髪の毛も綺麗に結われていて、頭には小さなティアラが乗っかっている。二人は本当に幸せそうに輝いている笑顔を浮かべていた。きっと過去に辛いことがあって乗り越えてきたから今はこうしてあるのだろう。二人が新郎新婦の席に到着すると、紫藤さんが挨拶をした。「皆さんお集まりくださりありがとうございます。本当に仲のいい人しか呼んでいません。気軽な気持ちで食事をして行ってください」結婚パーティーではプロのアーティストだったり、芸人さんがお笑いネタをやってくれたりととても面白かった。自由時間になると、美羽さんが近づいてきてくれる。「久実ちゃん、今日は来てくれてありがとう」「ウエディングドレスとても似合っています」「ありがとう。また今度ゆっくり遊びに来てね」「はい! お腹大事にしてください」「ええ、ありがとう」美羽さんのお腹の赤ちゃんは順調に育っているようだ。早く赤ちゃんが生まれてくるといいなと願っている。美羽さんと紫藤さんは辛い思いをたくさんしてきたらしいので、心から幸せになってほしいと思っていた。アルコールを楽しんでいる赤坂さんに目を向ける。事務所が私との結婚を許してくれたらいいな。でも、たくさんファンがいるだろうから、悲しませてしまわないだろうかと考えてしまう。落ち込んでしまうけど、希望を捨ててはいけない。必ず大好きな人と幸せになりたいと心から願っている。そして今まで支えてくれたファンの方たちにも何か恩返しができればと思っていた。私が直接何かをすることはできないけれど陰ながら応援していきたい。
◆今日は美羽さんと、紫藤さんの結婚パーティーだ。レストランを借り切って親しい人だけを選んでパーティーをするらしく、そこに私を呼んでくれたのだ。ほとんど会ったことがないのにいつも優しくしてくれる美羽さん。忙しいのにメッセージを送るといつも暖かく返事をしてくれる。そんな彼女の大切な日に呼んでもらえたのが嬉しくてたまらなかった。私は薄い水色のドレスを着てレストランへと向かった。会場に到着して席に座ると、私の隣に赤坂さんが座った。「おう」「……こ、こんにちは」「なんでそんなに他人行儀なの?」ムッとした表情をされる。赤坂さんと結婚の約束をしたなんて信じられなくて、今でも夢かと思ってしまう。「なんだか……私たちも婚約しているなんて信じられなくて」「残念ながら本当だ」「残念なんかじゃないよ。すごく嬉しい」赤坂さんはにっこりと笑ってくれた。そしてテーブルの下で手をぎゅっと握ってくれる。誰かに見られたらどうしようと思いながらドキドキしつつも嬉しくて泣きそうだった。「少し待たせてしまうかもしれないけど俺たちももう少しだから頑張ろうな」「うん」大好きな気持ちが胸の中でどんどんと膨らんでいく。こんなに好きになっても大丈夫なのだろうか。小さな声で会話をしていると会場が暗くなった。そしてバイオリンの音楽が響いた。『新郎新婦の入場です』
「病弱でいつまで生きられるかわからなくて。私たち夫婦のかけがえのない娘だった。その娘を真剣に愛してくれる男性に出会えたのだから、光栄なことはだと思うわ」お母さんの言葉をお父さんは噛みしめるように聞いていた。そして座り直して真っ直ぐ赤坂さんを見つめた。「赤坂さん。うちの娘を幸せにしてやってください」私のためにお父さんが頭を深く深く下げてくれた。赤坂さんも背筋を正して頭を下げる。「わかりました。絶対に幸せにします」結婚を認めてくれたことが嬉しくて、私は耐えきれなくて涙があふれてくる。赤坂さんがそっとハンカチを手渡してくれた。「これから事務所の許可を得ます。その後に結婚ということになるので、今すぐには難しいかもしれませんが、見守ってくだされば幸いです」赤坂さんはこれから大変になっていく。私も同じ気持ちで彼を支えていかなければ。「わかりました。何かと大変だと思いますが私たちはあなたたちを応援します」お母さんがはっきりした口調で言ってくれた。「ありがとうございます」「さ、お茶でも飲んでゆっくりしててください。今日はお仕事ないんですか?」「はい」私も赤坂さんも安心して心から笑顔になることができた。家族になるために頑張ろう。
「突然押しかけてしまって本当に申し訳ありません」赤坂さんが頭を下げると、お父さんは不機嫌そうに腕を組んだ。赤坂さんは私の命を救ってくれた本当の恩人だ。お父さんもそれはわかっているけれど、どうしても芸能人との結婚は許せないのだろう。赤坂さんが私のことを本気で愛してくれているのは、伝わってきている。私の隣で緊張しておかしくなってしまいそうな雰囲気が伝わってきた。「お父さん、お母さん」真剣な声音で赤坂さんはお父さんとお母さんのことを呼ぶ。お父さんとお母さんは赤坂さんのことを真剣に見つめる。「お父さん、お母さん。お嬢さんと結婚させてください」はっきりとした口調で言う姿が凛々しくてかっこいい。まるでドラマのワンシーンを見ているかのようだった。「お願い、赤坂さんと結婚させて」「芸能人と結婚したって大変な思いをするに決まっている。今は一時的に感情が盛り上がっているだけだ」部屋の空気が悪くなると、お母さんがそっと口を開いた。「そうかしら。赤坂さんはずっと久実のことを支えてくれていたわ。こんなにも長い間一緒にいてくれる人っていない。芸能人という特別な立場なのに、本当に愛してくれているのだと感じるの。だから……お母さんは結婚に賛成したい」お母さんの言葉にお父さんはハッとしている。私と赤坂さんも驚いて目を丸くした。お母さんはお父さんの背中をそっと撫でる。「あなたが久実のことを本当に大事に思っているのは一番わかるわ。可愛くて仕方がないのよね」「……あぁ」父親の心が伝わり泣きそうになる。
慌ててインターホンの画面を覗くと、宅急便だった。はぁ、びっくりさせないでほしい。ほっとしているが、残念な感情が込み上げてくる。どこかで赤坂さんに来てほしいという気持ちもあるのかもしれない。ちょっとだけ、寂しいなと思ってしまう。私は赤坂さんと結婚するのは夢のまた夢なのだろうか。お母さんが言っていたように二番目に好きな人と結婚しろと言われても、二番目に好きな人なんてできないと思う。ぼんやりと考えているとふたたびチャイムが鳴った。お母さんがインターホンのモニターを覗くと固まっている。その様子からして私は今度こそ本当に本当なのではないかと思った。「……あなた。赤坂さんがいらしたんだけど」「なんだって」部屋の空気が一気に変わった。私は一気に緊張してしまい、唇が乾いていく。赤坂さんが本当に日曜日に襲撃してくるなんて思ってもいなかった。冗談だと思っていたのに、来てくれるなんてそれだけ本気で考えてくれているのかもしれない。「久実、お父さんとお母さんのことを騙そうとしていたのか」「違うの。赤坂さんお部屋に入れてあげて。パパラッチに撮られたら大変なことになってしまうから」お父さんとお母さんは仕方がないと言った表情をすると、オートロックを解除した。数分後赤坂さんが部屋の中に入ってくる。今日はスーツを着ていつもと雰囲気が違っている。手土産なんか持ってきちゃったりして、芸能人という感じがしない。松葉杖を使わなくても歩けるようになったようだ。テーブルを挟んでお父さんとお母さん向かい側に私と赤坂さんが並んで座った。
家に戻り、落ち着いたところで携帯を見るが久実からの連絡はない。もしかしたら、両親に会える許可が取れたかと期待をしていたが、そう簡単にはいかなさそうだ。久実を大事に育ててきたからこそ、認めたくない気持ちもわかる。俺は安定しない仕事だし。でも、俺も諦められたい。絶対に久実と結婚したい。日曜日、怖くて不安だったが挨拶に行こうと決意を深くしたのだった。久実side日曜日になった。朝から、赤坂さんが来ないかと内心ドキドキしている。今日に限って、お父さんもお母さんも家にいるのだ。万が一来たらどうしよう。いや、まさか来ないよね。……いやいや、赤坂さんならありえる。私は顔は冷静だが心の中は忙しなかった。もし来たら修羅場になりそう。想像すると恐ろしくなって両親を出かけさせようと考える。お父さんは新聞を広げてくつろいでいる。「お父さん、どこか、行かないの?」「なんでだ」「い、いや、別に……アハハハ」笑ってごまかすが、怪しまれている。大丈夫だよね。赤坂さんが来るはずない。忙しそうだし、いつものジョークだろう。でも、ちゃんとお父さんに会ってもらわないと。赤坂さんと、ずっと、一緒にいたい。ランチを終えて食器を台所に片付けに行くと、チャイムが鳴った。も、もしかして。本当に来ちゃったの?
久実を愛しすぎて、彼女のウエディングドレス姿ばかり、想像する日々だ。世界一似合うと思う。純白もいいし、カラードレスも作りたい。もちろん結婚がゴールではないし結婚後の生活が大事になってくる。つらいことも楽しいことも人生には色々あると思うが彼女となら絶対に乗り越えて行ける自信があった。ただ……俺も黒柳も結婚をすると、COLORは解散する運命かもしれない。三人とも既婚者のアイドルなんてありえないよな。大事なCOLORだ。ずっと三人でやってきた。大樹だけ結婚をして幸せに過ごしているなんて不公平だと思う。あいつが辛い思いをしてきて今があるというのは十分に理解しているから、祝福はしているが、俺だって愛する人と幸せになりたい。グループの中で一人だけが結婚するというのはどうしても腑に落ちなかった。だから近いうちに事務所の社長には結婚したいということを伝えるつもりでいる。でもそうなるとやっぱり解散という文字が頭の中を支配していた。解散をしても、俺は久実を養う責任がある。仕事がなくなってしまったら俺は久実を守り抜くことができるのだろうか。不安もあるが、久実がそばにいてくれたら、どんな困難も乗り越えられると信じていたし、絶対に守っていくという決意もしている。
赤坂side音楽番組の収録を終えた。楽屋に戻ると、大樹は美羽さんに連絡をしている。「終わったよ。これから帰るから。体調はどうだ?」堂々と好きな人とやり取りできるのが、羨ましい。俺は、久美の親に結婚を反対されているっつーのに。腹立つ。会うことすら許してもらえない。大きなため息が出てしまう。私服に着替えながらも、久実のことを考える。久実を幸せにできる男は、俺だけだ。というか、どんなことがあっても離さない。俺は久美がいないと……もう、生きていけない。心から愛している。どんな若くて綺麗なアイドルなんかよりも、世界一、久実が好きだ。どうして、久実のご両親はこんなにも反対するのか。俺に大切な娘を預けるのは心もとないのだろうか。なんとしても、久実との交際や結婚を認めてほしい。一生、久実と生きていきたいと思っている。俺のこの真剣な気持ちが伝わればいいのに……。日曜日に実家まで押しかけるつもりでいた。 強制的に動かなければいけない時期に差し掛かってきている。 苛立ちを流し込むように、ペットボトルの水を一気飲みした。「ご機嫌斜め?」黒柳が顔を覗き込んでくる。「別に!」「スマイルだよ。笑わないと福は訪れないよ」「わかってる」クスクス笑って、黒柳は楽屋を出て行く。俺も帰ろう。「お疲れ」楽屋を出てエレベーターに乗る。セキュリティを超えて ドアを出るとタクシーで帰る。一人の女性をこんなにも愛してしまうなんて予想していなかった。自分の人生の物の見方や思考を変えてくれたのは、間違いなく久実だ。きっと彼女に出会っていなければ、ろくでもない人生を送っていたに違いない。
週末まで仕事をして、金曜日の夜になった。赤坂さんが日曜日に突撃すると言っていたけれど、本当なのだろうか。冗談で言っていると信じたいけれど、彼はまっすぐな性格をしているから、冗談じゃない気もする。でも本当に家に来てしまったら、修羅場になるのではないか。不安な気持ちのまま夕食を食べて、何気なくテレビを見ていると赤坂さんが画面に映し出された。その姿を見るだけで私の心臓は一気にドキドキし始める。すごくかっこいいし、早く会いたくなる。許されるなら同棲をし、今後して、家族になりたい。そんな感情がどんどんと溢れてくるのだ。私の感情を打ち消すかのように、お母さんはさり気なくチャンネルを変えた。「……お母さん」そんな意地悪しないでと心の中でつぶやく。お母さんは小さなため息をついた。そして私に視線を向けないまま口を開く。「忘れるなら早いほうがいいのよ。二番目に好きな人と結婚すると、幸せになるって言うでしょ?」私に言い聞かせるようなそれでいて独り言のような感じだった。「お母さんは、二番目に好きな人がお父さんだったの?」「……」ここほこっとわざとらしく咳をして話をはぐらかされてしまった。お母さんは立ち上がって台所へ行ってしまう。たとえ幸せになれなくても私は一番目に好きな人と結婚したい。反抗的な感情が胸の中を支配していた。